雨の夜
あなたに向ける感情は、いつだってもっとも美しいものでありたい。
もっとも美しい感情--それを文章化する手段を手に入れるにはまだまだ時がかかりそうだが、それと逆の感情、つまりもっとも苦しい感情ならば、わたしは既に知っている。
申し訳ないと思うこと、その気持ちをあなたに向けること、それこそがもっとも悲しいものだということを、わたしは知っている。『悲しい』と『苦しい』は実はいちばん似ている言葉だ。
例えば、あなたの好きな本を知ってしまった時、わたしは期待と憂惧の狭間でその本のページをめくるだろう。そしてあなたが愛する世界線をこの目で追うごとに、胸の締め付けられるような思いを抱く。暗く深い森の地図を見つけたときや、瓶詰めの手紙が海の向こうの見知らぬ誰かから届いたとき、ずいぶん昔に失くしたボタンを見つけたときに湧き上がる気持ち---誰にも言いたくないのに、誰かに知らせたい、そんな気持ちはわたしの心をギュウッと締め付ける。幸福感よりも、悲愴感が勝るほどに、痛みを感じる強さで。
小さい頃は、夜は1日の終わりで、夢を見ている間に今日という日はリセットされて、朝を迎えるものだと思っていた。毎日が新しい今日で、明日はいつだって明日だった。
でも、大人になりかけの中途半端だったわたしは、夜更かしを覚えてしまった。
そうして、夜に終わりが無いことを知った。今日はいつまでも今日で、いつまでも明日にならないことを知った。
すべての時間はひとつづきで、どこかに終止符があるわけではなくて、それが、これからもずっと続く日々で、ずっと、ずっと、
死にたい、と思った。気付いた日から、今までずっと。絶対に死ねないわたしが、死にたいと思った。ごめんなさい、ごめんなさい、実行する勇気なんかないくせに、それでも心奥は常に死に向かっているの。そしていちばん卑怯なのは、この胸のうちをあなたに明かせない、いいえ、明かさないわたし。
あなたに向ける感情は、いつだってもっとも美しいものでありたい。
そんなの、嘘だ。わたしはそんなに強くない。わたしは、せめてあなたが要らないことで傷つかないように、苦しい感情を見せないようにしよう。それが、あなたを愛していると伝えるための、わたしなりの手段なのだ。
あなたを暗がりに呼び込む必要はこれっぽっちもない。たとえわたしがあなたを好きで、あなたもわたしを好きだとしても。
雨の夜、冬の日、月と星は影をひそめる。
わたしがあなたに望むこと、ひとつ
わたしには、本や映画の中で営まれる世界に心を動かすことはできるのに、
隣に座ってココアを飲むあなたの生きる世界を見ることすらできないのが本当にもどかしい。
わたしにも、あなたの世界を分けてほしいと思う。あなたにも、わたしの世界を届けてあげたいと思う。
繋いだ手から伝わっていけば良いのに。
でもそれじゃ、きっとだめなのだろう。伝える手段を探す過程で、ふたりの視点が重なる瞬間があるのだろう。だから、わざわざ遠回りをしなければいけないようにできているのだ。
あのね、
わたしはまだ経験も浅いし、未知なことの方が多くて、どちらかというと生きるのが下手なほうだけれど、それでも、知っていてほしい。
隣に座るあなたには、どうか見せてあげたいの。だってあなたは、この世の中の大勢のひとびとからわざわざわたしを選んで、隣に座ってくれたのだから。
信じる
作詞 谷川俊太郎
作曲 松下耕
笑うときには大口をあけて
おこるときには本気でおこる
自分にうそがつけない私
そんな私を私は信じる
信じることに理由はいらない
地雷をふんで足をなくした
子どもの写真目をそらさずに
黙って涙を流したあなた
そんなあなたを私は信じる
信じることでよみがえるいのち
葉末(はずえ)の露(つゆ)がきらめく朝に
何を見つめる子鹿のひとみ
すべてのものが日々新しい
そんな世界を私は信じる
信じることは生きるみなもと
どうしようもなく愛おしいもの、そこにあるべきでないのに、そこにあるもの。
腕時計が外されて心細く見える手首とか、ニットの中に隠れて見えなくなったハートのモチーフのネックレスとか、あるいは本を読むために束ねられた髪や律儀につけられた髪留めなんかを見ると、ああ、このひとはきっと今世界でいちばんセクシーだ、と感じる瞬間がある。
それは、図書館に来たのにノートもペンケースも出さずにミュージックプレイヤーで音楽を聴いているひとや、クロワッサンにコーヒーではなくミルクを合わせてしまうひとを見かけた時なんかとよく似ている。
そういうひとはまるで熟した木苺のように魅力的だから、自分の知らぬ間に惹かれてしまうかもしれない。
だからわたしはそういうひとに出会ってしまった時は、なるべく用心して、息を止めて、足音を立てないようにそろりそろりと歩き、そして背後に回るのだ。
一瞬ののち、狙え。 バアン。
ひと目見て、『あ、好きだ』と自覚して、それからどうしようもなく惹かれてしまうことがある。まだ恋を知らない少女だった中学生のわたしも、頭と心と体を休みなく動かすような日々を過ごしていた高校生のわたしも、寄り道ばかり揺れてばかりの大学生のわたしも、全てのわたしが経験した。抗えない衝撃。正面からぶつかってくるのに、不思議と痛さは感じない。心地よい、波の中。
わたしからわたしを奪っていった彼女たちは、みな強さがあった。目が合うと、どきりとする。そんな強さ。誰にも言ってない嘘や、封じ込めた本心を見透かされたような気持ちになる。
友達でも、同級でも、知り合いですらない存在のわたしから向けられた視線を、彼女たちはみな、一切無視したりしなかった。
はじめは、受け止めて。次は、会釈をして。戸惑いがちに挨拶をするわたしに、爽やかな笑顔を返してくれた。
一人でいるときの彼女たちはいつも自分自身に厳しい眼差しを向けていて、その鋭さは時折他者を遠ざけるほどだった。彼女たちは一様に己の眼差しの鋭利さに気がついていないようだった。常に鋭い刃先で余分な部分を削り出していた彼女たちは、一分の無駄もない聡明さを持ち合わせていた。
一見、敬遠されそうなほどの高尚さを身に纏った彼女たちだが、いや、そんな彼女たちだからこそ、穏やかな笑顔を向けられたり、強さのうちに隠しきれず打ち明けた後ろ向きな言葉を受け止めたときに、ああ、もうこれ以上はいけないと。これ以上あなたに踏み込んでしまえば、わたしはあなたに引きずられてしまう。あなたを連れて、底のない深みへはまってしまう。
ねえ、だめなの、きっとあなたは此方に来ないんでしょう、わたしだけが落ちてゆく、穴の中へ、落ちてゆく。
幼い頃集めた宝物は上等なクッキーの缶に詰めたけれど、わたしのこの、ついに誰にも言うことのなかった心は一体どこに仕舞えばいいのだろう。
チョコレートの入っていた缶や、綺麗なクッキーの箱をみんなが大事にとっておくのは、果たしてこういう理由なのだろうか。
わたしも、いつか見つけられるだろうか。
容れ物を待つ、こころが、探している。
牛トマトと豚汁
はじめてに出会う回数を、数えようと思ったのも、今日がはじめてだった。
はじめて言葉を交わす彼、はじめて受けとる本、はじめての仕事、はじめての人たち、はじめて出会う友達、そしてその友達と行くはじめてのごはん屋さん、そこで食べたのははじめての味、ではなかった。今日はじめての裏切り。わたしは懐かしい味を、はじめて食べた。
牛トマト。メニューの1番上に書いてあった名前。大学近くのごはん屋さん。でもケーキもアルコールも出してるから、カフェとも言えるしダイニングバーとも言える、のかもしれない。
牛トマトひとつ、お願いします。目の前に座る数時間前に出会った同い年の女の子は、タルタルチキンで、と言った。かしこまりました、メニューをお下げします。ここ、昼間に来たことはあるんだ、でも夜ははじめてなの。ケーキも美味しそうだよね、そういえば、名前、なんて呼べばいいかな。穏やかな彼女は目を三日月にしながら、わたしを知ってゆく。わたしも彼女をぼんやりと捉えてゆく。このやり取り、この時間、形を変えてゆく。
お待たせしました、こちら牛トマトでございます、こちらが、タルタルチキンです。白いお皿がゴトリと置かれる、牛トマト、煮込まれた赤色、それはトマトの、牛肉の、赤ワインの、赤だった。お皿いっぱいのごはんと牛トマト、そしてサラダはわたしの心をぐんと動かす。いただきます。ひとくち、咀嚼、ふたくち、咀嚼、そののち、美味しい。美味しいね、しあわせな気分だね。
体調とこころを崩したわたしはもうしばらく『ちゃんとしたごはん』を食べていなかった。その時食べたいものを、てきとうに、カロリー摂取のみ、食べないこともあるし、食べ過ぎることもある、そんな日が何日と続いていた。
だから、今日の晩御飯が牛トマトで、ほんとうに良かったのだ。はじめての、けれども穏やかで懐かしい味のする牛トマトは、美味しいという感情を連れてきてくれた。ひとつひとつ切った野菜、丁寧に焼いたお肉、じっくりと煮込んだ具材、誰かのために作ったご飯は、ゆっくりゆっくり咀嚼されて、そうして収まってゆく。
空っぽだったのは胃だけではない。
自炊はするの、と彼女に尋ねてみる。実は最近したの。豚汁。寂しい気持ちになったから、あったかいもの食べたくなっちゃって。彼女の答えに、思わず食い気味で答える。ね、ね、わたしも、寒くてさみしくなったとき、豚汁作ったんだよ、一緒だね。彼女とわたしは出身が近い。やっぱりあったまるものといえば、豚汁だよね。里芋は、いれる?あ、いれないのかあ、家庭の違いかな、それとも県民性かなあ。
じゃあ、そろそろ出ようか、お会計別で。わたし牛トマトです。780円です、はいちょうどお預かりします。わたしタルタルチキンです、はい、千円からお預かりします、お釣りご確認ください。ごちそうさまでした、わたしたちは声を揃えて言った。またご来店ください、明るく陽気な店長さん。
わたしはもうずっと、ひとりで食事をすることに慣れていた。習い事の教室でおにぎりを頬張ることも、家族のいないダイニングテーブルで作り置きを食べることも、塾で参考書を読みながらカロリーメイトで食事を済ませることも、全部慣れっこだった。だから全然平気なのだ。
それでも、慣れていても、平気でも、誰かと一緒に手料理を食べたいと、思う気持ちは深く残っていた。それを、今日嫌でも自覚させられた。今まで目を背けてきた本心に、今日、はじめて向き合わされてしまった。
それはどこか懐かしい味とともに、懐かしい感情を連れて。
そういえば
昨日は昨日のままで終わらず、どろりと溶けて今日に落ちたが、そんなことを引きずってずうっと落ち込んでるわけにもいかないのでやや久しぶりに大学へ来た。
八畳一間に膜を張って過ごすより、幾分か息を吸いやすいのが大学だった。来てしまえばどうということはない。でも、吸うばかりの空気は、それも息苦しい。そうも感じる。
とにかくいまのわたしにとっては家を出ることが最難関といっても良い。もしくはお風呂に入ることがいちばん苦手かも知れない。次にちゃんとした食事をとること。人並みの生活。いまのわたしに、圧倒的に足りないもの。自覚しているもの。
やや乱暴的に終わりを迎えた秋は、その身代わりに冬を連れて来た。絶望的に冬だった、今日の風。木枯らし。中途半端に冬を引っ張り出してきたこの前の雪の日とは大きく違って、今日はちゃんと冬になる準備をしているみたいな天気だった。イチョウの葉がはらはらと落ち、朝から落ち葉掃除に勤しむオジサンがいて、お早うございますと心の中で労って、風に髪をとられながらブーツを履いたこの足で、ずんずん、ずんずんと歩いていく。歩いていく、季節が来た。
誰かのぬくもりを求めることで心の隙間からのぞく暗闇を遠ざけようとした少し前のわたしとは違って、自分の腕で自分を抱きしめたい、いや、そうしなきゃいけない季節が、今年も、わたしの元に。
12月のはじまり。
贈られることのない絵葉書と、
わたしがぼんやりとしている間に世間は12月も6日目を迎えてしまったようだけれども、そんな夜
わたしはわたしを、書き起こすことにした。
気持ちを考えること、文字を見ること、それを飲み込むこと、そして理解すること、それらを全て自分一人で回してみようと決めた。今決めた。軽率である。
どうしてこのツールなのか、もっと他の選択肢があるのかも知れない。けれど機械系・情報系に疎いわたしにはそれを知る術もなければ使いこなす術もない。わたしには、他のソーシャルネットワークじゃいけない気がした。きっと適応できない、と。
かといってこの場所を使いきれるかどうかは甚だ疑問だけれども
こうして頭のなかをひっくり返して見るとわたしの生き方は随分勝手な人間のそれだ。
母からのメールを心待ちにしていたあの頃。
今は連絡が来るだけで混乱しそうになる。
身勝手な娘を無償で応援してくれる母を本当に尊敬しているし、だけど、本当に理解できない。こんな娘。こんなわたし。
母と連絡を絶ってもう暫く経つ。と言ってもほんの数週間だが。逆説的に言うとそれ以前の関係が親密だったということだ。それでも母から逃げたこの約一ヶ月は今まで過ごしたどの一ヶ月よりも長い。長く、遠く、感じる。
わたしが、悪い。
母は優しい。厳しい。強い。
母は
わたしを愛してくれている。
それでも今は、たとえ土砂降りの雨の中だったとしても、母が差し出してくれる傘から逃れ、自分の足で、走って、走って、走って、家に帰りたいと思う。
今年の母の誕生日に、と購入したピーターラビットのハンカチと絵葉書は、きっと母の元へ届くことはない。