猫とアレルギーを聴くとき

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決まって思い出すのは彼と別れたあの日のことで、わたしの下宿の玄関先で最後のキスをしたあの瞬間をいつも鮮明に思い出す。

彼と出会ったのは去年の7月だったはずで、別れたのは今年の7月だからだいたい1年くらいの関係だった。人生という枠の中で考えれば一瞬の出来事で、実際に彼との日々はあっという間でほんのちょっとの時間だったはずなのに、それでもわたしはこの1年がこれからの人生の中できっとずっと忘れることのない重く大切な1年だったと思い続けることを知っている。

 

彼と付き合う前のわたしは、人を好きになるとか誰かを大切に思うとか依存するとか幸せって何かとか寂しいという感覚とか、そういうものを一切知らなくて、「ごめん寂しいって何か解らない」「ごめん好きじゃないのかもしれない」「ごめん、楽しいけど幸せなのかどうかは解らない」と伝えるたびに彼は困ったように笑ってた。そうしてひとつひとつ丁寧に教えてくれた、会いたいと思う感情と寂しさの繋がりとか、嫉妬心と独占欲とか、そういうもの総てを。

生まれたばかりの雛鳥はその眼にはじめて映したものを親と認識すると言うけれど、人をこんなにも好きになるのがはじめてだったわたしは雛鳥よろしく彼をひたすら追いかけ続けた。彼の評価がわたしの総てで、彼が想ってくれることがわたしの総てで、彼の総てがわたしの総てになっていた。不健全な関係であることは十分すぎるほどに自覚していて、それでも依存という形でしか恋愛関係の成り立たせ方を知らないわたしには修復しようにも手の施しようがなかった。今思えば、彼を好きになってしまったその瞬間からもう手遅れになることは決定事項だったのだと思う。個人として自立していて自己評価ができる人に魅力を感じる彼が、グダグダなわたしに興味がなくなるのは時間の問題で、春の終わりから彼の心境の変化に薄々感づいてはいたけれどそれを声に出して伝えて仕舞えばきっともう2人の関係は壊れて直らなくなるんだろうなと、そんなことを考えて新緑の時期は過ぎていった。

 

別れ話が最初に持ち上がったのは6月の半ばで、雨の音がする暗い部屋の中に彼の静かな声が響いていたのを覚えている。彼がもうわたしに興味がないことは解りきっていて、彼の心境の変化に気付かないほど愚か者でもなかったから、見て見ぬ振りをし続けるのが辛かった。別れて仕舞えばラクになると思ったから、はじめは平気な顔をして別れ話を受け入れた。けれども、ひとつの布団で抱き合いながら彼の薄い上半身や筋肉質の脚や日に焼けた腕をまさぐって、最後に彼の頬を撫で唇にキスをしたときにポロリと本音が漏れてしまった。「さっきはわかったって受け入れたけど、本当は全然別れたくないよ」泣くつもりなんてこれっぽっちもなかったのに、そう伝えた途端に涙が溢れてしまって彼の腕の中でわんわん泣いた。わたしの涙につられて彼もわんさと泣いた。どうして好きな人に興味がなくなってしまうのか、そんな自分が嫌だと泣いた、わたしのことを好きなはずなのに、その気持ちを保てない自分を責めて彼は泣いた。 

別れることが非常に辛いことで受け入れられないことでそれは愛情の比重がお互い均等でなくてもそうで、だから少し猶予期間を設けることにした。もう少し一緒にいよう。でもそれはわたしにとって余命宣告が1ヶ月から2ヶ月になったようなもので、どちらにせよ近い将来に死ぬことは確定しているし意味があるのかないのかわからない延命治療を受けている気分だった。きっとすぐに別れることになる、それだけが解っている関係は楽しいはずがなくただひたすらに切なかった。残された短い時間を、彼との関係を楽しむのではなく、彼が居なくなっても平気なように依存から自立へとシフトチェンジすることを心がけるリハビリ期間のように過ごした。

そして7月に、満を持して別れ話を持ちかけた。端的に言って地獄だった。何故わたしは大好きで大好きで仕方がなくてずっとこれからも永く隣に居たいと思う人に「別れよう」と言わなければならないのか。それでも言わなければいけないことは解っていた。この1ヶ月が関係を継続させるための時間ではなくて、離れることに慣れるための時間だったことははじめから承知の上だったはずだろう自分、と。

別れるときに彼はわたしに大丈夫だよ、と何度も言った。俺が居なくなっても大丈夫、1人になっても独りじゃないから大丈夫、恋人じゃなくなったとしても大切な人であることに変わりはないから大丈夫、大丈夫だよ。何がだよ、何が大丈夫なんだよ、ぜんぜん大丈夫じゃないから、だから離れないでお願い明日も隣にいて、そうみっともなく縋りたい気持ちを押し殺してわたしはありがとうと言った。きっと綺麗に笑えていたはずだ。

 

別れ話をする前に彼とセックスをした、最後のセックスだと思った。行為が終わったら彼に別れを切り出さなきゃと思ったら、涙が出そうだった。泣くまいと顔を歪めるわたしを見てどうしたの、どっか痛かった?と聞く彼はどこまでも優しい人だった。 

6月に別れ話をしたときとは打って変わってお互いに泣きじゃくることもなく穏やかにお別れを告げ、約1年の交際に終止符を打った。ベランダを開けると外には寝られそうにない蒸し暑い夜の気配が漂っていた。じゃあ、そろそろ帰るね、と立ち上がる彼を抱きしめてわたしは最後にキスをねだった。軽く触れるだけで満足するつもりだった。けれども(彼に触れるのはこれが最後になるのかもしれない)と思ったら我慢ができなかった。深く長く貪るようなキスをした。

 

7月末、暑かったのかクーラーは付けていたのか蝉は鳴いていたのかどんな服を着ていたのか、そんなことはひとつも思い出せないのに彼の首にしがみつきながら(このキスが終わったらもうこの人と口付けを交わすことはないんだ)と絶望に浸りながらそれでも幸せで切なくて深く激しいキスをしたことを今でも鮮明に覚えている。


2018/11/30