お知らせと生存報告

本当にお久しぶりになってしまいました、

 

最後にブログを書いてから1年とはんぶん以上が経ってしまって、2年なんてほんの少しの時間だけれどそれでもじゅうぶんにいろんな出来事があった。

母に絶望して絶対に帰省なんかするものかと1人東京の六畳一間で年を越した一昨年の冬、年が明けて3日の昼過ぎにわたしは結局福島行きの高速バスに乗り込んでいた。新宿の街はいつもより人が少なくて、それでも地元の人口なんて今わたしがあたりをパッと見渡して目に入るひとびとのそれだけでゆうに越してしまうんだろうな、なんて考えていた。駅ビルの初売りセールにやってきた少女たちはミニ丈のスカートから足を惜しげもなくともすれば乱暴に投げ出していて、そんなのは東北の冬じゃあ考えられないし、やっぱり東京はあったかいよなあ、と5時間後に体感することになる故郷の刺すような冬の空気を思い出して身震いしたりした。

 

バスに乗り込んでからはあっという間だった。

あっという間すぎて2年も経ってしまった。

あれから母とは幾度か衝突したり衝突を避けて関係性を放棄しそうになったりもしたけれどなんとかお互い気遣って生きている。もう母からの番号を着信拒否したりなんかしないし、というか今さっき母からのメッセージをLINEで受け取った。『年金の書類を実家に転送してください、お母さんの勤務先に届け出が必要みたいです。』だそうだ、娘よ。母は昨年なかなか電話に出ずメールを返さない娘のためにLINEを始めた。LINEなら若者が日常的にチェックすることを知ったらしい、娘とはどうあがいても母に勝てない生き物なのか。

しんどかったサークルも辞めた。留年の危機はなんとか免れたけど必修科目をひとつ落とした。2年次に再履修した。それでも母は何も言わなかった、相変わらず母に絵葉書を贈ることはできなかった。

 

2年生になってからも相変わらず死にたくて、家庭教師のアルバイトをクビになったりTSUTAYAで借りた映画のDVDを期限が過ぎたのにいつまでも返却できなかったりする生活を送っていた。大学の近くのアパートに引っ越したのに登校できない日も多かった。母への申し訳なさで何度も泣いた。人生が、いや生活がこんなにもつらいことに耐えられなくて何度も泣いた。楽しいこともあるけれど幸せだとは思わなかった。わたしのことを好きだと言ってくれる人がいたけれど、わたしは彼に好きだと言えなかった。好きとかよくわかんない。楽しいから楽しくないか、それしかわかんない。それでもいいよと彼は言った。

彼は身長が186センチもあって抱きしめられると安心した。彼はわたしの気持ちが行動に追いつくのを辛抱強く待っていてくれて、彼がわたしに好きと言ってくれるたび言い表せない安心感に包まれた。まるでわたしの背後にふわふわの綿があるような、後ろ向きに倒れ込んだらふかふかのソファに全身を受け止められたような、そういう低反発な安心感を彼の存在で感じていた。夏の終わりにキスをして始まった関係は冬になる頃にはわたしの方が愛情過多になって形勢逆転もいいとこだった。クリスマスにはケーキを持って家に来てくれて、コンビニのチキンを食べながらプレゼントを交換した。2月には草津に連れて行ってくれた。いつでも隣に居たかった、いつも大好きだった。わたしからの重めの愛を3割くらい受け流しつつそれでも隣でわたしを見守ってくれていた彼とは今年の夏に別れた。切ない夏だった。今でもこんなに好きなのに、なんで、なんでと思わない夜はない。けれども彼のことが好きだからこそ彼がもうわたしのことを好きではないのなら、復縁を迫るべきでも思いを押し付けるべきでもないのだと20歳になったわたしは知っている。

2016年の冬に先輩の煙草をひと吸いもらって大人になった気でいた2年前のわたしは、2018年の秋ウィンストン・キャスターの5ミリを愛用するわたしになった。

 

大人になったとは思わない。ただ変化しただけなのだ。

たったそれだけのことなのに胸が押しつぶされそうになるこの感情になんと名前をつけようか。

 

 

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