牛トマトと豚汁

はじめてに出会う回数を、数えようと思ったのも、今日がはじめてだった。

 

はじめて言葉を交わす彼、はじめて受けとる本、はじめての仕事、はじめての人たち、はじめて出会う友達、そしてその友達と行くはじめてのごはん屋さん、そこで食べたのははじめての味、ではなかった。今日はじめての裏切り。わたしは懐かしい味を、はじめて食べた。

 

牛トマト。メニューの1番上に書いてあった名前。大学近くのごはん屋さん。でもケーキもアルコールも出してるから、カフェとも言えるしダイニングバーとも言える、のかもしれない。

 

牛トマトひとつ、お願いします。目の前に座る数時間前に出会った同い年の女の子は、タルタルチキンで、と言った。かしこまりました、メニューをお下げします。ここ、昼間に来たことはあるんだ、でも夜ははじめてなの。ケーキも美味しそうだよね、そういえば、名前、なんて呼べばいいかな。穏やかな彼女は目を三日月にしながら、わたしを知ってゆく。わたしも彼女をぼんやりと捉えてゆく。このやり取り、この時間、形を変えてゆく。

 

お待たせしました、こちら牛トマトでございます、こちらが、タルタルチキンです。白いお皿がゴトリと置かれる、牛トマト、煮込まれた赤色、それはトマトの、牛肉の、赤ワインの、赤だった。お皿いっぱいのごはんと牛トマト、そしてサラダはわたしの心をぐんと動かす。いただきます。ひとくち、咀嚼、ふたくち、咀嚼、そののち、美味しい。美味しいね、しあわせな気分だね。

 

体調とこころを崩したわたしはもうしばらく『ちゃんとしたごはん』を食べていなかった。その時食べたいものを、てきとうに、カロリー摂取のみ、食べないこともあるし、食べ過ぎることもある、そんな日が何日と続いていた。

だから、今日の晩御飯が牛トマトで、ほんとうに良かったのだ。はじめての、けれども穏やかで懐かしい味のする牛トマトは、美味しいという感情を連れてきてくれた。ひとつひとつ切った野菜、丁寧に焼いたお肉、じっくりと煮込んだ具材、誰かのために作ったご飯は、ゆっくりゆっくり咀嚼されて、そうして収まってゆく。

空っぽだったのは胃だけではない。

 

自炊はするの、と彼女に尋ねてみる。実は最近したの。豚汁。寂しい気持ちになったから、あったかいもの食べたくなっちゃって。彼女の答えに、思わず食い気味で答える。ね、ね、わたしも、寒くてさみしくなったとき、豚汁作ったんだよ、一緒だね。彼女とわたしは出身が近い。やっぱりあったまるものといえば、豚汁だよね。里芋は、いれる?あ、いれないのかあ、家庭の違いかな、それとも県民性かなあ。

じゃあ、そろそろ出ようか、お会計別で。わたし牛トマトです。780円です、はいちょうどお預かりします。わたしタルタルチキンです、はい、千円からお預かりします、お釣りご確認ください。ごちそうさまでした、わたしたちは声を揃えて言った。またご来店ください、明るく陽気な店長さん。

 

わたしはもうずっと、ひとりで食事をすることに慣れていた。習い事の教室でおにぎりを頬張ることも、家族のいないダイニングテーブルで作り置きを食べることも、塾で参考書を読みながらカロリーメイトで食事を済ませることも、全部慣れっこだった。だから全然平気なのだ。

 

それでも、慣れていても、平気でも、誰かと一緒に手料理を食べたいと、思う気持ちは深く残っていた。それを、今日嫌でも自覚させられた。今まで目を背けてきた本心に、今日、はじめて向き合わされてしまった。

 

それはどこか懐かしい味とともに、懐かしい感情を連れて。

 

 

そういえば

昨日は昨日のままで終わらず、どろりと溶けて今日に落ちたが、そんなことを引きずってずうっと落ち込んでるわけにもいかないのでやや久しぶりに大学へ来た。

 

八畳一間に膜を張って過ごすより、幾分か息を吸いやすいのが大学だった。来てしまえばどうということはない。でも、吸うばかりの空気は、それも息苦しい。そうも感じる。

 

とにかくいまのわたしにとっては家を出ることが最難関といっても良い。もしくはお風呂に入ることがいちばん苦手かも知れない。次にちゃんとした食事をとること。人並みの生活。いまのわたしに、圧倒的に足りないもの。自覚しているもの。

 

やや乱暴的に終わりを迎えた秋は、その身代わりに冬を連れて来た。絶望的に冬だった、今日の風。木枯らし。中途半端に冬を引っ張り出してきたこの前の雪の日とは大きく違って、今日はちゃんと冬になる準備をしているみたいな天気だった。イチョウの葉がはらはらと落ち、朝から落ち葉掃除に勤しむオジサンがいて、お早うございますと心の中で労って、風に髪をとられながらブーツを履いたこの足で、ずんずん、ずんずんと歩いていく。歩いていく、季節が来た。

 

誰かのぬくもりを求めることで心の隙間からのぞく暗闇を遠ざけようとした少し前のわたしとは違って、自分の腕で自分を抱きしめたい、いや、そうしなきゃいけない季節が、今年も、わたしの元に。

 

12月のはじまり。

贈られることのない絵葉書と、

わたしがぼんやりとしている間に世間は12月も6日目を迎えてしまったようだけれども、そんな夜

 

わたしはわたしを、書き起こすことにした。

 

気持ちを考えること、文字を見ること、それを飲み込むこと、そして理解すること、それらを全て自分一人で回してみようと決めた。今決めた。軽率である。

 

どうしてこのツールなのか、もっと他の選択肢があるのかも知れない。けれど機械系・情報系に疎いわたしにはそれを知る術もなければ使いこなす術もない。わたしには、他のソーシャルネットワークじゃいけない気がした。きっと適応できない、と。

 

かといってこの場所を使いきれるかどうかは甚だ疑問だけれども

 

 

こうして頭のなかをひっくり返して見るとわたしの生き方は随分勝手な人間のそれだ。

 

母からのメールを心待ちにしていたあの頃。

今は連絡が来るだけで混乱しそうになる。

身勝手な娘を無償で応援してくれる母を本当に尊敬しているし、だけど、本当に理解できない。こんな娘。こんなわたし。

 

 

母と連絡を絶ってもう暫く経つ。と言ってもほんの数週間だが。逆説的に言うとそれ以前の関係が親密だったということだ。それでも母から逃げたこの約一ヶ月は今まで過ごしたどの一ヶ月よりも長い。長く、遠く、感じる。

 

わたしが、悪い。

母は優しい。厳しい。強い。

母は

 

わたしを愛してくれている。

 

それでも今は、たとえ土砂降りの雨の中だったとしても、母が差し出してくれる傘から逃れ、自分の足で、走って、走って、走って、家に帰りたいと思う。

 

今年の母の誕生日に、と購入したピーターラビットのハンカチと絵葉書は、きっと母の元へ届くことはない。