愛について

恋人に「もう好きじゃない」と言われた昨晩はまるで冬の日のように冷たい雨が降る夜でした。

一昨日、なんだかもう全てがどうでもよく感じられて、霞がかった思考でぼんやりとドラッグストアに行きお酒とガーゼをレジに持って行きました。お店を出て、そのまま路上に座り込んでお酒を飲みお菓子を過食し安野モヨコの『脂肪という名の服を着て』を読んでいたら、涙なんて一粒も落ちないのに何かが溢れる音がしました。タバコの吸い殻をパンプスで踏み潰したら、そのまま立ち上がってふらつく足で帰宅の途につきました。玄関を上がってからは全てが早かった。お水をコップに2杯、飲み干してトイレに向かいました。右手の人差し指と中指を喉の奥に突っ込むと、ほろ酔いとポッキーとリッツクラッカーがだらだらと流れ出てきました。ほろ酔い2缶でこんな状態になれるなんて、なんてアルコールのコスパが良い体質なんだ、とかなんとか思いながら、500円分のたべものたちがトイレの排水溝に攫われて行くのをジッと見つめていました。あらかた吐き出すと、ベッドにも辿り着けず脱ぎっぱなしの下着やレジ袋なんかが散乱した床に倒れ込み、しばらく肩で息をしていました。ハア、ハアーーーー。ハア、ハアーーーー。

わたしがこんな行為をしたのには意味がありました。そう、リストカットをするためです。素面ではとても出来ないから、お酒を飲み思考を停止させ過食嘔吐をし胃も精神もボロボロになったところで腕を切ればそんなに痛みは感じない。そう思ってカミソリを左上腕部に当てました。普通に痛かったです。

視界は霧がかかったように曇っていて、思考も明瞭ではありません。部屋はここ数週間の怠惰のせいで混乱を極めていました。その中でピンクの持ち手に銀色を鈍く光らせたカミソリだけがはっきりとわたしの眼に映っていたのです。

刃を何往復かさせたところで腕とは違う部分が痛むことに気がつきました。陳腐なことを言いますが、心が痛かったのです。自分で勝手に落ちた穴から抜け出せず、他者に助けを求める様子は興味本位から蟻地獄に落ちた滑稽な蟻そのものだったでしょう。しばらく会っていなかった恋人に連絡するも、急な電話には出ませんでしたがそれには不満も寂しさも感じませんでした。至極当然なことです。次に電話したのは以前交際していた男の人でした。彼は2コール目ですぐに電話を取ってくれました。どうしたのーーー。さすがは1年間交際した相手です、すぐに事情を察知してくれました。わたしが会いたがっていることも。“彼に”ではなく、“誰かに”会いたいということも、折り込み済みで。残念ながら彼は翌日早朝からアルバイトがあるということで、会うことは叶いませんでした。それでも、俺も会いたいよ、バイトが無ければ会いに行ったよ、と言ってくれたその事実だけでわたしは幾らか救われたのでした。

彼との通話を終えたすぐ後に、恋人から折り返し電話がかかってきました。ああ、とため息を漏らし、迷いなく通話ボタンを押しました。辛くなってしまった、会いたい、会いに来てーーーー祈るような気持ちで、縋るような声で、それだけを伝えました。しかし恋人の口から発せられた言葉はわたしの期待を大きく裏切るものでした。

「いま会えば、たしかにお互いハッピーかもしれない。けれど、それは違うと思う。」

「少し距離を置きたくて」

いま ここ を救い出してほしかったわたしは、これから この先 の話をされて茫然としました。わたしの願いと彼の思いが噛み合っていないこと、わたしがそれに気がつかないほどに盲目になっていたこと、彼につらいことを言わせてしまったーーー。ぐるぐる回る思考の中で、恋人が「明日夜10時に会おう。それと、もう自分を傷つけないでほしい」と言ったのが聞こえました。「約束は、出来ない」と答えて電話を切りました。

求めていた救いは得られるどころか存在すらしませんでした。

泣きじゃくりながら助けを求めた友人は、深夜の非常識な電話にも優しく対応してくれました。わかるよ、と、自分が作り出した地獄に自分から飛び込み、抜け出せなくなる絶望感。発端は自分なのに他者に助けを求めてしまうこの呆れるほどの救いようの無さ。それでも、毎日生きなきゃいけないんだよ、わたしは毎日バッターボックスに立つと決めたんだ、と彼女は清々しい声で言いました。彼女は終わりに『人生の短さについて』というセネカの本を教えてくれました。

そして翌日、昨晩のことです。恋人と行きつけのバーで会い、お酒を飲みながら話をしました。彼は言いにくいことをちゃんと言ってくれました。少し距離を置きたい、あけた距離が戻るかどうかはわからない、少しじゃなくてこれから先ずっと、距離を置かせてほしい。わたしたちは実を言うと付き合っていませんでしたので、別れるとかよりを戻すとかそういう簡潔明瞭な言葉を使うわけにはいきませんでした。付き合うのではなくお互いに好きだから一緒にいる、というスタンスを取っていたのです。ですから、片方の気持ちが離れたら終わりにすべきだと言うことはわたしもきちんと理解はしていました。それでも、聞き分けのいい子になってサヨナラを言えるほど、恋人への想いは薄くありませんでした。家まで送るよ、とやさしい恋人は言ってくれました。交差点の前で立ち止まり、腕を引かれ、また三叉路の前で立ち止まり、今度は腕を引かれても動きませんでした。

「帰らない、あなたの家に行く」

今思い返してみれば最低な駄々のこね方ですが、恥を晒してでも、格好悪くても、恋人のことを諦めるわけにはいかなかったのです。わたしの腕を引く恋人はとても恐い顔をしていて、けれどもその顔はいつも余裕がなくなったときに見せるセクシーな表情に似ていて、ムズムズと湧き上がる状況にそぐわない欲求を抑えるのに必死でした。結局、根負けした恋人がわたしを連れ帰ってくれることになりました。家に来ても何にもいいことないよ、と冷たく言い放たれたわたしが、いちばん良いブラジャー置いてったままなんだもん、と口答えすると、緩む口元を必死に隠そうとする恋人は何処までも可愛い人でした。

終電車一本前の西武新宿線はいつもと何も変わらず、黙々とわたしたちを運んでいるのでした。

恋人の家に着いて、シャワーを浴びて、恋人の髪を乾かして、2人でベランダでタバコを吸いました。ただ違うのは、ただいまとおかえりのキス、それだけがありませんでした。

布団に入ろうと電気を消したところで、恋人に背後から抱きしめられました。背の高い恋人から、星の降るようなキスをされました。布団をかぶってきつく抱き合い、それからポツポツと言葉を交わしました。どうして電話したのか、何を考えていたのか、これからどうしたいのか、わたしはまだあなたと一緒に居たい、その想いを言葉にするのは容易ではありませんでした。

「わたしはあなたのことをまだ全然知らない。離れるには早すぎる。あなたと四季を全部隣で見たい。まだ冬と春しか、知らない」

寝れないね。と声を掛けられて、眠れないね。と答えました。次のキスには終わりがありませんでした。

「もう好きじゃない」

彼の結論です。わたしには揺るがすことのできない、固い意志です。それでも、彼はわたしの眼を見て言うことはできませんでした。本当に思ってるんだったら、わたしを見て。そう迫ると、そんな顔しないでよ、と言う恋人の方がよほど涙を零しそうな、眉の下がった切ない顔をするのです。わたしは恋人が好きだし、きっと恋人もわたしが好き。暗示ではなく、願いです、情けないわたしの救いようのない願い。

「わたし待つことにしたから」

「帰ってくる人がいるなら、待つことに意味はあるけど、僕は帰ってこないから」

「『ゴドーを待ちながら』って知ってる?永遠に来ないゴドーを待つ男2人の演劇。ゴドーが来ないことを知っているのに、ベケットがその戯曲を書いて以降世界中で何度も上演されて沢山の人がそれを見ている。みんな結末を知っているのに、ゴドーは来ないのに。わたしは待つよ」

2019/04/08

Mommy

たかが世界の終わり』を鑑賞した時に感じた、ドランの持つ世界に対しての陰鬱な印象が後味悪く残っていたから、はじめは少し不安な気持ちで講義室の硬い椅子に座っていた。(フランス人ってみんなこんな風に怒鳴ったりヒステリックになったり互いに唾を飛ばして罵倒し合うのかな‥)と良くない偏見を抱きそうになりながらフランス映画では見慣れた暴力的なまでの口論シーンを見守っていたら、この親子の口論はひとつのコミュニケーションのかたちを取っていることがわかりホッとした。

しかし、物語が進むにつれてその口論も掴み合いの喧嘩も一時的な癇癪も総て「ああまたやってるよ笑」では済まされない、決定的な出来事へ繋がっていたことに気が付き、勝手に安心してお気楽な気分でいた自分が途端に恥ずかしくなった。みんなにとって『なんてことない』事象でも、誰かにとっては『重大な』事象になり得るって、そんなの分かりきっていることじゃあないか。


わたしはこの世の愛というものの大部分を信じていなくて特に恋人同士の間で交わされる揃いの指輪や誓われる愛の言葉ほど無価値なものはないとさえ思っている。

けれども、わたし個人の経験の中で、誰にも揺るがすことができず最も強く失われることのない愛というのはつまり母からの愛であり父からの愛であり祖母からの愛であると思うのだ。わたしが彼らを嫌悪し憎悪し裏切る未来が来たとしても、彼らはわたしを愛してくれると思う。それはまさしく紛れもない、無償の愛というもので。

 

別に家族愛が絶対だと主張したいのではない。家族とか血縁とかそういうものは信じていないし、わたしが愛されたように将来自分の子供に還元しよう、愛のある家庭を築こうなんて微塵も思っていないのだから。

けれども、ここで言いたいのは、そういうわたしの面倒くさい感情やら理屈やら世間やらそういうもの総てを無視して、母や父や祖母の、わたしに対する愛は優先されているということなのだ。

Mommyで述べられていた、愛とは、こういうもののことを言うのでは無いだろうか。総てに優先される愛、自己犠牲が素晴らしいのではなく対象を無償で愛するというその覚悟こそが愛の現れなのだ。

 

2019/01/05

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猫とアレルギーを聴くとき

youtu.be

決まって思い出すのは彼と別れたあの日のことで、わたしの下宿の玄関先で最後のキスをしたあの瞬間をいつも鮮明に思い出す。

彼と出会ったのは去年の7月だったはずで、別れたのは今年の7月だからだいたい1年くらいの関係だった。人生という枠の中で考えれば一瞬の出来事で、実際に彼との日々はあっという間でほんのちょっとの時間だったはずなのに、それでもわたしはこの1年がこれからの人生の中できっとずっと忘れることのない重く大切な1年だったと思い続けることを知っている。

 

彼と付き合う前のわたしは、人を好きになるとか誰かを大切に思うとか依存するとか幸せって何かとか寂しいという感覚とか、そういうものを一切知らなくて、「ごめん寂しいって何か解らない」「ごめん好きじゃないのかもしれない」「ごめん、楽しいけど幸せなのかどうかは解らない」と伝えるたびに彼は困ったように笑ってた。そうしてひとつひとつ丁寧に教えてくれた、会いたいと思う感情と寂しさの繋がりとか、嫉妬心と独占欲とか、そういうもの総てを。

生まれたばかりの雛鳥はその眼にはじめて映したものを親と認識すると言うけれど、人をこんなにも好きになるのがはじめてだったわたしは雛鳥よろしく彼をひたすら追いかけ続けた。彼の評価がわたしの総てで、彼が想ってくれることがわたしの総てで、彼の総てがわたしの総てになっていた。不健全な関係であることは十分すぎるほどに自覚していて、それでも依存という形でしか恋愛関係の成り立たせ方を知らないわたしには修復しようにも手の施しようがなかった。今思えば、彼を好きになってしまったその瞬間からもう手遅れになることは決定事項だったのだと思う。個人として自立していて自己評価ができる人に魅力を感じる彼が、グダグダなわたしに興味がなくなるのは時間の問題で、春の終わりから彼の心境の変化に薄々感づいてはいたけれどそれを声に出して伝えて仕舞えばきっともう2人の関係は壊れて直らなくなるんだろうなと、そんなことを考えて新緑の時期は過ぎていった。

 

別れ話が最初に持ち上がったのは6月の半ばで、雨の音がする暗い部屋の中に彼の静かな声が響いていたのを覚えている。彼がもうわたしに興味がないことは解りきっていて、彼の心境の変化に気付かないほど愚か者でもなかったから、見て見ぬ振りをし続けるのが辛かった。別れて仕舞えばラクになると思ったから、はじめは平気な顔をして別れ話を受け入れた。けれども、ひとつの布団で抱き合いながら彼の薄い上半身や筋肉質の脚や日に焼けた腕をまさぐって、最後に彼の頬を撫で唇にキスをしたときにポロリと本音が漏れてしまった。「さっきはわかったって受け入れたけど、本当は全然別れたくないよ」泣くつもりなんてこれっぽっちもなかったのに、そう伝えた途端に涙が溢れてしまって彼の腕の中でわんわん泣いた。わたしの涙につられて彼もわんさと泣いた。どうして好きな人に興味がなくなってしまうのか、そんな自分が嫌だと泣いた、わたしのことを好きなはずなのに、その気持ちを保てない自分を責めて彼は泣いた。 

別れることが非常に辛いことで受け入れられないことでそれは愛情の比重がお互い均等でなくてもそうで、だから少し猶予期間を設けることにした。もう少し一緒にいよう。でもそれはわたしにとって余命宣告が1ヶ月から2ヶ月になったようなもので、どちらにせよ近い将来に死ぬことは確定しているし意味があるのかないのかわからない延命治療を受けている気分だった。きっとすぐに別れることになる、それだけが解っている関係は楽しいはずがなくただひたすらに切なかった。残された短い時間を、彼との関係を楽しむのではなく、彼が居なくなっても平気なように依存から自立へとシフトチェンジすることを心がけるリハビリ期間のように過ごした。

そして7月に、満を持して別れ話を持ちかけた。端的に言って地獄だった。何故わたしは大好きで大好きで仕方がなくてずっとこれからも永く隣に居たいと思う人に「別れよう」と言わなければならないのか。それでも言わなければいけないことは解っていた。この1ヶ月が関係を継続させるための時間ではなくて、離れることに慣れるための時間だったことははじめから承知の上だったはずだろう自分、と。

別れるときに彼はわたしに大丈夫だよ、と何度も言った。俺が居なくなっても大丈夫、1人になっても独りじゃないから大丈夫、恋人じゃなくなったとしても大切な人であることに変わりはないから大丈夫、大丈夫だよ。何がだよ、何が大丈夫なんだよ、ぜんぜん大丈夫じゃないから、だから離れないでお願い明日も隣にいて、そうみっともなく縋りたい気持ちを押し殺してわたしはありがとうと言った。きっと綺麗に笑えていたはずだ。

 

別れ話をする前に彼とセックスをした、最後のセックスだと思った。行為が終わったら彼に別れを切り出さなきゃと思ったら、涙が出そうだった。泣くまいと顔を歪めるわたしを見てどうしたの、どっか痛かった?と聞く彼はどこまでも優しい人だった。 

6月に別れ話をしたときとは打って変わってお互いに泣きじゃくることもなく穏やかにお別れを告げ、約1年の交際に終止符を打った。ベランダを開けると外には寝られそうにない蒸し暑い夜の気配が漂っていた。じゃあ、そろそろ帰るね、と立ち上がる彼を抱きしめてわたしは最後にキスをねだった。軽く触れるだけで満足するつもりだった。けれども(彼に触れるのはこれが最後になるのかもしれない)と思ったら我慢ができなかった。深く長く貪るようなキスをした。

 

7月末、暑かったのかクーラーは付けていたのか蝉は鳴いていたのかどんな服を着ていたのか、そんなことはひとつも思い出せないのに彼の首にしがみつきながら(このキスが終わったらもうこの人と口付けを交わすことはないんだ)と絶望に浸りながらそれでも幸せで切なくて深く激しいキスをしたことを今でも鮮明に覚えている。


2018/11/30

 

お知らせと生存報告

本当にお久しぶりになってしまいました、

 

最後にブログを書いてから1年とはんぶん以上が経ってしまって、2年なんてほんの少しの時間だけれどそれでもじゅうぶんにいろんな出来事があった。

母に絶望して絶対に帰省なんかするものかと1人東京の六畳一間で年を越した一昨年の冬、年が明けて3日の昼過ぎにわたしは結局福島行きの高速バスに乗り込んでいた。新宿の街はいつもより人が少なくて、それでも地元の人口なんて今わたしがあたりをパッと見渡して目に入るひとびとのそれだけでゆうに越してしまうんだろうな、なんて考えていた。駅ビルの初売りセールにやってきた少女たちはミニ丈のスカートから足を惜しげもなくともすれば乱暴に投げ出していて、そんなのは東北の冬じゃあ考えられないし、やっぱり東京はあったかいよなあ、と5時間後に体感することになる故郷の刺すような冬の空気を思い出して身震いしたりした。

 

バスに乗り込んでからはあっという間だった。

あっという間すぎて2年も経ってしまった。

あれから母とは幾度か衝突したり衝突を避けて関係性を放棄しそうになったりもしたけれどなんとかお互い気遣って生きている。もう母からの番号を着信拒否したりなんかしないし、というか今さっき母からのメッセージをLINEで受け取った。『年金の書類を実家に転送してください、お母さんの勤務先に届け出が必要みたいです。』だそうだ、娘よ。母は昨年なかなか電話に出ずメールを返さない娘のためにLINEを始めた。LINEなら若者が日常的にチェックすることを知ったらしい、娘とはどうあがいても母に勝てない生き物なのか。

しんどかったサークルも辞めた。留年の危機はなんとか免れたけど必修科目をひとつ落とした。2年次に再履修した。それでも母は何も言わなかった、相変わらず母に絵葉書を贈ることはできなかった。

 

2年生になってからも相変わらず死にたくて、家庭教師のアルバイトをクビになったりTSUTAYAで借りた映画のDVDを期限が過ぎたのにいつまでも返却できなかったりする生活を送っていた。大学の近くのアパートに引っ越したのに登校できない日も多かった。母への申し訳なさで何度も泣いた。人生が、いや生活がこんなにもつらいことに耐えられなくて何度も泣いた。楽しいこともあるけれど幸せだとは思わなかった。わたしのことを好きだと言ってくれる人がいたけれど、わたしは彼に好きだと言えなかった。好きとかよくわかんない。楽しいから楽しくないか、それしかわかんない。それでもいいよと彼は言った。

彼は身長が186センチもあって抱きしめられると安心した。彼はわたしの気持ちが行動に追いつくのを辛抱強く待っていてくれて、彼がわたしに好きと言ってくれるたび言い表せない安心感に包まれた。まるでわたしの背後にふわふわの綿があるような、後ろ向きに倒れ込んだらふかふかのソファに全身を受け止められたような、そういう低反発な安心感を彼の存在で感じていた。夏の終わりにキスをして始まった関係は冬になる頃にはわたしの方が愛情過多になって形勢逆転もいいとこだった。クリスマスにはケーキを持って家に来てくれて、コンビニのチキンを食べながらプレゼントを交換した。2月には草津に連れて行ってくれた。いつでも隣に居たかった、いつも大好きだった。わたしからの重めの愛を3割くらい受け流しつつそれでも隣でわたしを見守ってくれていた彼とは今年の夏に別れた。切ない夏だった。今でもこんなに好きなのに、なんで、なんでと思わない夜はない。けれども彼のことが好きだからこそ彼がもうわたしのことを好きではないのなら、復縁を迫るべきでも思いを押し付けるべきでもないのだと20歳になったわたしは知っている。

2016年の冬に先輩の煙草をひと吸いもらって大人になった気でいた2年前のわたしは、2018年の秋ウィンストン・キャスターの5ミリを愛用するわたしになった。

 

大人になったとは思わない。ただ変化しただけなのだ。

たったそれだけのことなのに胸が押しつぶされそうになるこの感情になんと名前をつけようか。

 

 

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向こうで書いた記事ははてなブログでも公開します。ぼちぼち気が向いたら更新します。

 

 

BGMのおはなし

ものごとを自分に習慣付けることって、実はものすごく難しいことなのでは、とふと思いつく。わたしは自分を拘束するのがとてもとても嫌だから、気を抜くとすぐ不定期と偶然に象られたなんとも怠惰な生活に陥ってしまう。

たとえば、毎日の保湿用に買ったクリームは缶の半分を残して冬の終わりを迎え、冷蔵庫には使い切れずに賞味期限を迎えた調味料がかわいそうに放って置かれている。

そんなわたしだけれど、ひとつだけ、もう、無意識に日常の中に求めるものがある。それが、BGMだ。

いつから、なんてもう思い出せないほどに、それは確実にわたしの生活のひとつのピースとなっている。CDラジカセで初めて聞いたのは大塚愛ちゃんの『さくらんぼ』だったっけ。お父さんが買ってきてくれた、家族のじゃない、はじめてのわたしだけのCD。

 

さくらんぼ (CCCD)

さくらんぼ (CCCD)

 

 

 

それ以来、いままでずっとわたしは音楽を流し続けている。影と同じくらいに、いつもわたしの傍にいて、それは常に私の背後で歌っていた。桜が咲けば森山直太朗を聞いたし、夏には蝉の声に負けないようにゆずを歌った。彼氏ができた日に、浮かれて流したのはYUIの『CHE.R.RY』だった。

 

さくら(独唱)

さくら(独唱)

 

 

夏色

夏色

 

  

CHE.R.RY

CHE.R.RY

 

 

 

最近は、できることが少なくなって、出かけることも減って、こころが勝手にこぼれていくのを止められずにいる。けれど、ちっぽけな電子機器から流れる音の粒子たちは、わたしの鼓膜から胸に届き、流れ出てしまったこころの穴を埋めてくれている。それはわたしの生活の、ひとよりうんと少ない、けれど大切な、大切な彩りなのだ。

aikoちゃんの『カブトムシ』を聞きながら、ふとそんなことを思った。

 

カブトムシ

カブトムシ

 

 

ちかくてべんり セブンイレブン

冬の味、ふゆのあじ、

 

この時期になるといつもセブンイレブンで、ほっとレモンとビッグアメリカンドッグ、あんまんを買ってもらってた

家から3kmのセブンイレブン  お母さんの車のなか  助手席に座り  ねむるわたし

 

東京のひとりべやからは 5分もかからないでセブンへ行けてしまうけど

本当にほしいものは  陳列されてないのよ、気付いているけれど

寒さを感じないと冬じゃない気がして  わざとコートを着忘れて  歩いて行く

あまのじゃくなのかな  そうなのかな  ちがうのかな

 

 

小さいわたしを温める、冬の味

大人になったわたしを温める、ふゆのあじ、その記憶

 

(お家でいつでも  飲めるようになったのよ)